教会の紹介

 

 

 


 
 
 
●大秦野バプテスト教会
日本バプテスト連盟に加盟しているプロテスタント教会です。秦野市ひばりヶ丘には1951年に教会を組織し、今日まで福音宣教を続けております。イエスが墓より甦られた日曜日毎に教会では礼拝が献げられます。バプテスト教会は聖書の教えに基づいて自主独立し、被造物である人間の自由と平等を重んじます。バプテスト教会はイギリスにおいて17世紀初頭に起こり、アメリカでは最大の教派となり、全世界ではロシアを含め、130ヶ国・4.000万人以上の信徒がいます。米国のマーティン・ルーサー・キング牧師はバプテスト派の教会で仕えられました。日本国内には330余りの教会・伝道所があり、西南学院大学西南女学院(福岡市)などの学校法人を始め、日本バプテスト病院(京都市)久山療育園(福岡県)天城山荘(静岡県伊豆市)などがあります。どなたでも心から歓迎いたしますので、お気軽にお越しください。
  
●沿革
1947年、中村芳男師により目白ヶ丘教会・成増伝道所の分身として神奈川県丹沢に丹沢ホームを開設。これを機に1949年、農村伝道を目指し、秦野市で伝道開始。1951年、教会組織、現在に至る。

●歴代牧師
中村芳男 牧師(1951年-1958年) 川上直之 牧師(1958年-1979年) 野村義雄 牧師(1979年-1999年) 金成燁 牧師(1999年-2002年) 田中仁一郎 牧師(2004年-2007年) 山本龍一郎 牧師(2007年-2016年)

●現在の牧師
 牧瀬博幸牧師(2017年6月就任)
   
  
◆大秦野バプテスト教会 信仰告白2013年7月改訂
 
  
 
◆大秦野教会の歴史
教会附属 ひばりが丘保育園設立の経緯と背景
 (1954年設立-2011年廃園)

-川上 直之牧師夫妻に聴く-
2009年9月15日(火) 山本龍一郎牧師がご夫妻を訪ね、お話をうかがいました。


●質問.1 「保育園の母体となった大秦野バプテスト教会ができた背景を教えて下さい。(山本)」

 戦後、私(川上牧師)はソ連からひきあげて帰国しました。その頃、信仰の先輩であった方と、それから私の叔父叔母(鹿野夫妻)が丹沢に入植し生活をはじめていました。(「丹沢ホーム」当時は登山者のための宿泊施設で山小屋でした。)叔父は「丹沢にこないか?」と、これから先行きあてのなかった私に声をかけてくれました。シベリアで事故に遭い、左足くるぶしを骨折していた私にとってありがたいお話でした。松葉づえにすがりようやくたどりついた私に、当時丹沢ホームの主幹者であった中村芳男先生(のち初代大秦野バプテスト教会牧師)は、玄関でひざまずいて頭をさげ「よくいらっしゃいました。」と歓迎してくれました。体が不自由ですぐ働ける状態でない私に「あなたは何もしなくていいんですよ。どうか一緒に祈って下さい。それだけでいいです。」と。こうして丹沢ホームでの生活がはじまりました。丹沢ホームではクリスチャン同士が集まって毎晩お祈りをしました。その祈りの中で「山のふもと(秦野)に伝道する機会を与えて下さい。」という願いが与えられました。やがて丹沢ホームの事業は日本バプテスト連盟社会部の傘下となりました。人も増え事業も拡大し、連盟からはトラックが2台届きました。トラックは山から材木を運び、ふもとから食料や生活物資を持ってくるために必需品でした。ある時、丹沢ホームのスタッフがトラックを運転中、一人の三輪車に乗った子どもが急にトラックの前を横切ろうとしました。運転助手は車から降りて、子どもを抱きかかえ「気をつけろよな。」と笑顔で声をかけ、子どもを優しく降ろしてスっと去りました。そこを偶然通りかかったのが、医師の川口正子先生(川口医院)でした。一部始終を見ていた川口先生は、トラックの運転助手の優しさに満ちた対応に大変感心されたそうで、その後も「あのトラックの持ち主は誰なのか?」と脳裏に残っていたようです。その後、思いもかけないことが起こりました。丹沢ホームの近くで、県に務めて材木の仕事をしている方が病気を患い医師を求めました。しかしこのような山奥まで登って来てくれる医師はいないだろうと誰もがあきらめかけていた時、あの川口医師が歩いて来てくれたのです。その時に川口先生は再びあのトラックを見かけました。「あのトラックの持ち主はここだったのか」とクリスチャンに対する関心を深められたそうです。まもなくして中村先生が川口医師宅に呼ばれました。その時のお話の趣旨は「秦野で伝道するために、私のところを使って下さい。」という川口先生からのご提案でした。そうして川口医師宅での集会がはじまったのです。数名の米国宣教師も来て伝道がはじまり、それが今の大秦野教会の前身です。私はその頃丹沢に来て5年目でした。毎日一生懸命仕えていましたが、ふと自分自身の事を少し考えたいと思い、中村先生に「ひまを下さい。」と申し出ました。先生はなかなか首を縦に振りませんでしたが、私が「会堂(今の大秦野バプテスト教会礼拝堂)の建築まで一生懸命やります、それが終わったら…」という条件を申し出ましたら、渋々承知してくれました。それから毎日建築現場に足を運ぶ日々。着々と礼拝堂が出来上がりました。1953(昭和28)年の事です。献堂式が済むと、私は東京の松村秀一牧師のもとに一年お世話になり、それから鮫(さめ 青森県八戸)の教会に行かないか?と言われ、そこで働くことになりました。その間結婚し子どもも与えられました。(川上氏)


●質問.2 「ひばりが丘保育園ができた背景を教えて下さい。(山本氏)」

 ひばりが丘保育園ができたのは、私が鮫にいる時でした。ですから、保育園設立の場に私は立ち会っておりませんので残念ながら1954(昭和29)年設立当初の細かな状況はお話できません。(みさを夫人)ですが、設立の諏旨は聞いております。当時、周りの麦畑の中にぽつんと建った教会。「地域の為に何かしたい」という願いが与えられたそうです。秦野市内を見渡すと、幼稚園が一つ。保育所や託児所はありませんでした。そこで「キリスト教保育を根ざした保育園を!」と教会附属保育園を設立したということです。(川上牧師)
初代園長は、中村芳男牧師でした。当時運営等に様々な困難や問題を抱えていた中村先生はお力を尽くしましたが、4年後には辞任することになりました。そこからは、信徒で教会形成と保育園運営を両方することになりましたが、それも限界を超えました。そこで後継人として新しい牧師・園長にと、私達に「帰って来て下さい」との要請があったわけです。1957(昭和32)年11月に牧師・園長に就任、それから22年間 大秦野バプテスト教会とひばりが丘保育園との歩みを共にしてきました。(みさを夫人)
当初の保育園は本当に大変でした。様々な家庭環境の中にいる子ども達・・・その中で応えていかなければならない保育。私もそのようなところで働きたいと前から思ってはおりましたが、二人目の子どもが生まれたばかりでした。実は秦野に赴く前「自分の子どもの育児に専念するので、しばらくは保育園では働くことができません。」という条件でしたが、秦野に来てみると実際にはそんなことは言ってはいられませんでした。長女をおんぶし保育にあたりました。生まれて間もない二女を、給食室で調理員がおんぶして仕事をしてくれました。当時園舎はまだ無く、現在の礼拝堂を保育室として利用していました。運営には本当に苦労しました。しかし、子ども達に対しては本当によい保育ができたと思います。貧富の差等による家庭環境の違いにひらきはありましたが、それを感じさせない保育ができたことと思います。「地域の為に!」という志のもと、労苦を共にしてきた職員の皆様方に心から感謝したいと思います。
 

 



 

 
 
●質問.3 「ところで先生は秦野市の姉妹都市パサデナとの交流の先駆者とうかがっていますが?(山本氏)」

 きっかけは1963(昭和38)年。テキサスはバプテスト教会が盛んな所。サウザンバプテスト教会の本部がダラスにあり、そこの呼びかけで、日本のバプテスト教会のお手伝いをしようとパサデナのハーバード牧師をリーダーとして3人の方が大秦野バプテスト教会を訪ねて来日し、一週間滞在されました。当時の秦野市長 藤喜太郎氏のご協力もあり、加藤市長は公民館や小学校でも講演してくれました。最後の日の感謝の集いでは、この3人の方を送り出してくれたパサデナの人々に対する感謝の気持ちでいっぱいでした。その人たちに会い、お礼をしたいと強く思いましたが、当時アメリカへ行くことなど夢のまた夢でした。しかし、三人はその時点で私たちをパサデナに迎え入れようと決めていたそうです。何度も呼びかけがあり翌年1964(昭和39)年、意を決してパサデナに行くことになりました。現地の教会に着くと牧師や教会員から「どんな所に行きたいですか?」という質問がありました。その頃私は秦野市の青少年問題協議会に関わっていたので、青少年の施設に行きたいと申し出たら、そこにいた警察官が「それはおてのものです」と、さっそく牧師と警察官と私達とで出かけていきました。その施設に出かける時には、私たちがパサデナに来ていることが現地でニュースになっていたので、出かける途中はずっと新聞記者が一緒に着いて来ていました。同行していた新聞記者の一人(パサデナ・シティズン新聞社)が、「秦野市とパサデナ市で姉妹都市提携が結べないものか」と提案してきたのです。そのことはパサデナの市長にも伝わりました。40日のアメリカ滞在を終え帰国し、その足で加藤市長へ姉妹都市のことを伝えました。その時にちょうど開かれていた議会に姉妹都市のことがかけられ、議会が承認しその日に決定したのです。その後しばらく活発な交流はありませんでした。けれども、現在の秦野市長である古谷義幸氏が市議会員になって間もない頃、市議会議事録を整理していたとき、パサデナと秦野市が姉妹都市になっていることを知ったそうです。それからさらに詳しく調べていったところ、姉妹都市になってはいるけれどもこれといって具体的な交流は無いということに疑問を感じられ、議長に報告したそうです。議長は「せっかく姉妹都市になっているのだから続けていくべきかもしれないけど、今後も続ける見込みがなければ、この話は打ち切るということにしたらどうか」と言われ、このことを確認するために有志でパサデナに出かけようではないかということになりました。1979(昭和54)年2月に13人の民間友好親善団がパサデナを訪問するという計画が立てられました。私もそのメンバーにと要請されました。成田に向かう途中バスの中、皆は不安そうでした。私は心の中で大丈夫と確信していましたので、「皆さん心配しながら今出かけていますけど、現地についたらパサデナの人達は絶対歓迎してくれますよ。」と経験者として申しました。案の定、パサデナに着くと大変な盛り上がりと歓迎で一行の心配は吹き飛びました。現地のテレビや新聞でも多く取り上げられました。当時の現地の新聞や、ヒューストンで名誉市民のバッチをいただいた時の写真等、今も大切にとっております。秦野とパサデナが具体的な交流をお互いにスタートしたのはこのようなことがきっかけとなりました。次第に交流は盛んになり今年は45周年にもなります。運動公園の図書館の手前には「パサデナ通り」という通りもあり、パサデナの人達も喜んでいると聞いています。2009年10月30日から11月5日まで、パサデナから公式訪問団(17名)が来秦され10月31日開催された「市民ふれあいの集い」では私事スピーチさせていただきました。(川上氏)

「貴重なお話をいただき、誠にありがとうございました。(山本氏)」